■□12月の法話■□
●唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う
私たちは生きていると、なにがしかのことが起こってきます。いいことであったり、悪いことであったりと。そこで、迷ったり、悩んだり、苦しんだりします。あたりまえの生活が一度に傾くような気持ちになったりしてしまうものです。
そこで、私たちは選択を行います。例えば、仕事のことです。長年仕事をしてきたのですが、最近どうも仕事がおもしろくない。そこで、会社を辞めようと迷っていると。ただ、年齢が四〇歳近くになっているので、現状を考えると、なかなか次の仕事がみつかりそうもない。まして、辞めれば、生活に困るのではないか、……。考えれば、かんがえるほど、今の会社に残るべきか、辞めるべきかと迷ってしまうのです。
選択には、判断基準が必要です。この場合だと、「おもしろいか」・「おもしろくないあか」です。ただ、よく見ると、そこには、私たちの損得というものさしが見え隠れしています。自分の実力が発揮できれば得であり、それができないようであれば損、給料が高ければ得で、安ければ損というようなことです。
この考えは、人間関係にも窺われます。自分に都合がいい人は付き合い、よくない人とは付き合わないといったことになってしまいます。
しかし、損得のものさしで人と付き合うことはどうなのでしょう。自分に得かどうかだけで付き合っていると、その人間関係はいやなものに変わってきます。初めはいいのですが、だんだん相手に気に入られようと媚びをふるようになるのではないでしょうか。これでは、人間関係が哀れなものになってしまいます。そして、心がだんだん疲弊していきます。
では、どうすればいいのでしょうか。またヒントを禅に求めてみましょう。中国に禅の真髄を表現した『信心銘』という語録があります。その中に、「至道は無難なり、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う」という言葉があります。
至道は人として輝くような生き方のことです。無難は、文字どおり、難しくないということです。揀択は思慮分別、選り好みという意味。唯嫌はそれだけを嫌うという意味です。
禅僧にとっては道を求め、厳しい修行をしなければいけません。確かに、そのことは必要ですが、それは自分の周り、つまり卑近のところに至極最高の道があることに気づくためです。それは、選り好みのない生活の中にこそ、仏の世界に入れる道が開けていることの自覚なのです。
私たちには禅僧のような修行は無理です。ただ、私たちは、日頃、でもって生きることを知って欲しいのです。このことを知っているだけで、今は「損得のものさし」に囚われていると気づくはずです。
自分の人生を輝かして、幸せになる生きるためには、なるべく分別、選り好みだけはしてはいけない、ということです。
■□11月の法話■□
●帆掛け舟を止めるには……
確か江戸時代の話だったと思います。場所は海に近い、宿屋の一室。禅僧が四人でお茶を飲みながら、閑談に興じていました。ちょうど窓からは、海が見え、そこに帆掛け船が一艘、波を受けて、上下していました。
それを見た一人の禅僧が言いました。
「どうじゃな。みなさん、海に浮かんで上下している帆掛け舟を、うまく停めてみせることができるかな」
禅僧というのは、変わっています。何でもないことを、さも大事な問題と考える傾向があります。ま、これが公案というものですが。
しかし、問題を出されたほうも禅僧です。三人のうちの一人は、間髪容れず、パッと自分の目を閉じました。目を閉じたのですから、帆掛け舟は見えません。みごとに帆掛け舟をとめてしまいました。
「他の方法はないかな」
すると、もう一人の禅僧は、窓に近寄り、海の見える窓の障子をぴしゃと閉めてしまいました。なるほど、こうすれば舟は見えません。だから、舟は停まったわけです。
「みごとじゃな」
出題した禅僧がそう言って、障子を開けました。また、海には帆掛け舟が浮かんで見えるようになりました。
次は、最後の禅僧です。三人は、興味津々な目つきで彼を見つめていました。だが、この禅僧は何食わぬ顔で、窓の外の帆掛け舟を見ています。ただ、じっと眺めているだけなのです。
「あなたはどうかな」
「いえ、わたしは先程から、あの帆掛け舟に合わせて、自分の心を上へ下へとさせています」
彼はそう答えました。 なるほど、舟の動きに合わせて自分の心が動けば、舟は動いていないことになります。彼はみごとに舟を停めたのです。
この禅僧たちは三人が三人、それぞれの方法でみごとに舟の動きを停めてしまいました。
では、どの方法がいちばん立派でしょうか。どれでもいいのです。禅では、それぞれがみんな正解なのです。自分に合った方法でいいということです。
ところで、私たちは、このような問題が出された時、どう考えるでしょうか。対象を何とかしようと考えてしまうのではないでしょうか。しかし、この禅僧たちは自分の方を変えているのです。舟にこだわっていると、舟は停められない。舟にこだわらなくなったとき、問題は解決されると教えてくれます。
ひょっとしたら、私たちの身近に起こる問題も、そんなところに解決の糸口があるかも知れませんね。
■□10月の法話■□
●悲しみと不幸が同時に……
お寺にいると、突然、いろいろな相談に来られたり、急に電話がかかってきて、主人が亡くなったので、葬儀をお願いしたいとか。急なことが結講、お寺にはやって来ます。
そんな中、次のようなことがありました。
夫が病気で亡くなり、毎週中陰の法要を行っていました。五七日ぐらいだったでしょうか、そこの息子さんが交通事故にあったという方がいました。
ご主人が亡くなった当初は悲しみにうちひしがれていたのですが、一週間ごとのお参りで、少し悲しみが和らいできた様子でした。そんな時に、息子さんが交通事故に遭ってしまったのです。悲しみや不幸が一辺に襲ってきたという感じです。
ところがです、交通事故によって、その方は逆に元気になっていったのです。毎日かいがいしく息子さんの病院に行かれるようになると、ご主人が亡くなった悲しみが薄らいでいくように見えました。 この時、思ったのは、悲しみや不幸が重なっても、人間は悲しみや不幸を忘れていき、なんとか生きていくのだな、ということでした。
私たちには、変な癖があります。どこかで、悲しみを忘れてはならない、といった思いです。特に子どもさんが亡くなった時などは、親はわが子の死を悲しまねばならない、と思ってしまうのです。ところが、時間が経つと、悲しまねばならないのに、いつの間にか日常の生活の戻り、わが子の死を忘れて、何かで笑ってしまうことがおこってきます。その時、そんな自分が許せないと思ってしまうのです。そこで必死になって、悲しみを増幅しようとしてしまいます。子供のいた部屋をそのままにして、まるで子供がまだ生きているようにしてしまうようにです。
しかし、仏教から言えば、この行為はまさに、「こだわり」なのです。しかし、本人はそれに気づいていません。そうすると、悲しみが複雑になり、すっきり解消できなくなってしまうのです。
ところが、悲しみに不幸がまた加わってくると、もういいやという気持ちになり、へんなこだわりが消えてしまうようです。この夫人のようにです。
『般若心経』には、「色即是空、空即是色」という言葉があります。色とは、は物質的存在、あらゆる存在をさします。それが「空」だというのは、「こだわり」の色眼鏡を取って、物を見ることです。どんな物事にも、善悪、きれい汚い、などの形容詞をつけて物(存在)を見ています。しかし、それは自分の心のありようです。物自体は、ただあるだけです。存在は心のありようを超えた「空」なのだと言っているのです。
つまり、悲しみや不幸は「空」であって、実体がないということです。実体がないものを私たちが「悲しみ」に仕立て上げて、それを後生大事に保存しているのです。
『般若心経』は、私たちのこの変な癖を、馬鹿げたことなので、すぐにやめてしまいなさいと言ってくれています。
悲しい時、苦しい時、自分の心の中で、「色即是空、空即是色」と唱えてみてください。案外、こだわっている自分に気づいて、楽になるかもしれませんよ。
■□9月の法話■□
●腹がへれば飯を食い
中国の禅僧・大珠慧海禅師の『頓悟要門』という語録にある話です。
源律師という人が大珠禅師のところにやって来て、問いました。「和尚は道を修行するにあたって、なにか工夫を用いられますか」。大珠禅師が答えます。「工夫を用いる」と。「どういう工夫を用いられるのですか」「腹がへれば飯を食い、眠くなれば眠る」「世間の人は誰もがそうしていますが、それは禅師の工夫と同じものですか」「同じではない」「どうして同じではないのですか」「他の人は、飯を食うとき、本当に食っていないで、あれこれ考えごとをしている。眠るときも本当に眠らず、いろいろのことを考えている。だから同じではないのだ」と大珠禅師は答えました。すると、律師は何も言えず、黙ってしまったのです。以上のような話です。
私たちはこの話をあたりまえではないか思われるかもしれません。大珠禅師と同じように眠くなった眠り、お腹がすいたらご飯を頂くと思っているからです。しかし、果たして、そうでしょうか。
私たちは、時々、眠れないと苦しむことがあります。特に心配事があれば、それが気になります。あれこれ考え、心配し、結局、寝苦しい夜を送ってしまうことがあったはずです。ただ、夜明けごろには、根が尽き眠ってしまうのですが。
これは、眠らねばならない、といった観念が、よけいに私たちを眠れなくさせているのです。明日の朝は早く起きねばならないのだから、いま眠っておかないと思うから、逆に眠れなくなってしまうのです。
腹が空いたら飯を食うことも同じです。私たちの多くが、時間がきたからご飯を頂かなくてはと思って、それでご飯を頂いているのではないでしょうか。あるいは、テレビを見ながら食事を頂いています。これでは、大珠禅師に怒られてしまいそうです。 つまり、私たちは、本当の意味で、眠ったり、食事を頂いてはいなかもしれません。 それに対して、大珠禅師は、眠くなれば眠り、お腹が空けば頂く。それができるようになるのが禅であると言われるのです。私たちの日常生活で、今やっている事を、しっかりとやるようにすれば、それが禅になると言うことです。
何も難しいことではありません。仕事をする時はしっかりと仕事をし、遊ぶ時はしっかりと遊ぶ。楽しい時は、しっかりと楽しむ。悩むときはしっかりと悩めばいいのです。ただし、悩みをなくそうとしながら悩むのは、しっかりと悩んでいなことです。
私たちは、今・ここを捨てて、生きることはできません。「今・ここ」をしっかりと生ききることです。それが禅のネライであり、仏教のネライでもあるのです。
さあ、「腹がへれば飯を食い」という気持ちで生きてみましょう。
■□8月の法話■□
●富貴をねがふ
私たちはよく願いごとをします。「商売が繁盛しますように」、「大学に受かりますように」、「病気が早く治りますように」、「出世できますように」とか、いろいろな願いをもって、お寺や神社にお参りをしています。困った時の神頼み、仏頼みです。
仏教では、それらを「現世利益」と言います。利益とは、仏の教えによって得られる功徳のことです。そして、この世で受ける利益が現世利益、あの世で受けるものが後世利益です。
しかし、宗教というものは、神様や仏様にさまざまな現世利益を求めるものだと錯覚している人が多いのではないでしょうか。
ところで、江戸時代の禅僧で、至道無難という方に、『至道無難禅師法語』という本があり、その中に次のような言葉があります。
「人ほどはかなきものなし。神仏にむかひ、富貴をねがふ。ねがふ心をやむれば富貴なることをしらず」
意味としては次のようなことです。人間ほど愚かな者はいない。だから、神や仏に向かって、富貴(金持ちで、かつ地位や身分が高いこと)を願う。その願う心をなくせば、たちまちその人は富貴になれるのに、それに気づかずにいる、ということです。
私たちは、どうしようもない時に、願っています。しかし、無難はその願う心が私たちを不幸にするというのです。もう少し欲しいと思う心は貪欲であり、それが苦の原因になるのです。これでもう十分です。ありがたいなあ……と思えたとき、私たちは幸せになれると言うのです。
例えば、登山です。今富士山に登ることがはやっているようですが、八合目まで登って、そこで疲れきったとします。その時、なんとか頂上まで登りたいと願えば、無理をしてなおも登りつづけてしまうでしょう。ところが、九合目でダウン。苦しくなって動けなくなり、死んでしまう危険も生じてきます。これでは不幸です。頂上に立ちたいと願う心が、私たち人間を不幸にしてしまったのです。
けれども、八合目で、「もうこれでいい」と思ってゆっくりと下山できる人は幸せなのです。実際、八合目で眺める風景もすばらしいはずです。そのすばらしい景色を楽しむことができれば、くたくたになって頂上に立っただけの人よりはるかに幸せを感じることでしょう。
また、現代人は、冷暖房完備で、いつもご馳走を食べています。贅沢この上ない生活をしながら、ちっとも満足せず、「もっと、もっと」と欲望ばかりを募らせいるのではないでしょうか。これでは愚かなことです。
至道無難の言葉は、富貴を願う私たちに、その願う心をやめさえすれば、求めていた富貴が、今、ここにあることに気づくことができると教えてくれているようです。
■□7月の法話■□
●今日のつとめに……
以前に書いたことですが、家内の認知症の母親が来て、もう四ヶ月になりました。
最近は、母親が何かあると、家内につきまとい、自分の眼中にないと不安なのか、「ミワちゃん(家内の名前)は、どこのいったの」と私に聴いてきます。「今、洗濯している」と答えても、また聞き返すのです。
家内は大変で、今までのように、食事、掃除、洗濯、それにお寺のこととの上に、この母親の面倒をみることが加わっています。普段のことだけでも大変なのに、母親がつきまとってくるので、普段のことも、時間がかかって、くたくたのようです。
それでも、家内はかいがいしく動き、そのおかげで、我が家はまわっていていっています。私はと言えば、たまに母親の相手をして、笑うような話をしているうらいでしょうか。
ところで、皆さんは幸せでしょうか。そう聞かれたら、皆さんは何と答えますか。皆さんが幸せと答えても不幸と答えても、「今」が幸せか、どうかを答えているのです。過去や未来の幸せではないのです。つまり幸せというのは、結局、「今」が幸せかどうかということです。
家内を見ていると、自分の範囲で、家族を維持していくことの大変さが、しみじみとわかってきます。時に、家内も疲れて、愚痴をこぼすこともありますが、それでも自分の役割を、一生懸命務めています。
人生は「今」より他はないのです。だから、「今」を一生懸命に生きること以外に幸せになる道はないはずです。
しかし、皆さんはどうでしょうか。多くの人が生活があたりまえのように思い、今あることが幸せとは理解できていないようです。そして、人をうらやましいと思ってしまうことです。
このような思いにとらわれているかぎり、私たちは幸せにはなれません。うらやむ思いにとらわれると、心は窮屈になってしまい、幸せを感じることができないからです。
人生は「今」の連続。私たちは、日々の生活を繰り返し、一生を終えます。私は、僧の役割を、家内は家族のために、掃除、洗濯、料理などをしながらです。
地位が高く、社会的に賞賛されるような人もいます。地位などなくてもにこにこして仕事に励んでいる人もいます。しかし、それはそれなんです。うらやむ必要はありません。今を一生懸命に生き、そこに幸せを見つければいいのです。
江戸時代の人、二宮尊徳は「この秋は雨か嵐か知らねども 今日のつとめに田草とるなり」と詠いました。
将来どうなるかわからないけれど、その日その日の仕事を、ただすることが幸せになる道だと教えているのです。また、心が楽になる道でもあるのです。
家内をみていると、他人をうらやんだり、自分の仕事に価値をおかないような生き方では、とうてい今の幸せなど得ることはできないと気付かされるようです。
■□6月の法話■□
●足る身こそ安けれ
私たちには、いろいろな欲があります。人に嫌われたくない、持てたい、きれいになりたい、惚けたくない、若くありたい、いつまでも若くありたい、お金持ちになりたい、良い家に住みたい……等々。多分、「〜したい」という欲はいくらでもわいてきます。私たちは、ある意味で、欲の塊といっていいかもしれません。
ただ、この欲があるから、向上心が涌き、人生がんばれるという人があるでしょう。
しかし、この欲があるから、私たちはちょっとしたことに落ち込んで、悩んでしまうことも生じてきます。例えば、病気をしたり、仕事でつまずいてしまった時などは、いろいろと考えて、悩んでしまうものです。
ところで、ここで皆さんに質問です。自分や家族について気になることを50挙げて、気になることには×、いいことんは○を付けてみてください。
給料が少ない、家が小さい、子供が不登校、シワが増えてきた、両親の世話をすることになったなどは×です。
ちょうと臨時収入がはいった、営業成績が前の月より上がったなどは○です。
そうすると昨日は○が13で、×が37。今日は○が10で、×が40。昨日より、×が3つも増えてしまいました。
こんな時、私たちの気持ちはぐらつきますね。なんか今日が駄目な日のように思えてきてしまいます。しかし、考えてみてください、全てが○なんていう日があるでしょうか。
このような発想はマイナスの考え方でしかありません。昨日が13で、今日が10であるということは、すべてが○ではないということです。10もあるということです。
つまり、私たちに欲があればあるほど、悩みつぎつぎにわいてきて、つきないということです。
「少欲知足」という言葉が仏教にあります。お釈迦さまの遺言である『遺教経』に収められている言葉です。「欲をできるだけ少なくして、足るを知る心を持ちなさい」「ガツガツするより、これで十分だと満足しよう」という意味です。
私たちははたから見れば、十分なはずなのに、「まだまだ」「もっともっと」と、欲がエスカレートしていきます。そして、いつも何かが足りない気がして、自分は不幸だと思ってしまうのです。逆に、足りていることを知っている人は、どんな生活をしていても、心は十分に満たされています。
ただ、勘違いをして欲しくないのは、「無欲」になれ、というのではありません。欲望がまったくなくなってしまったら、ぬけがらのようになってしまいます。「少欲」でいいのです。いつも欲を少なくすることを心がけていれば、自然に「足りることを知る」気持ちがわてきて、幸せが訪れてくるはずです。
「こと足れば、足るにまかせてこと足らず、足らでこと足る身こそ安けれ」
■□5月の法話■□
●老後への願い
今年の二月中旬に家内のお母さんが同居することになりました。ちょっと認知症が入っていたので、来た当処はどうしていいかと思ったことです。
例えば、週の内、三日間はデイサービス行ってもらっているのですが、帰ってくる度に、いま自分が何処にいるのかわからない。杖に付けた住所と名前を記した名札を、手持ちぶたさな時に確認をするのです。そして、突然、家に帰る、と。
その結果、ある日、たまたま家内と私が何かをしていた隙に、勝手口から出て、徘徊。その結果、坂ですべって骨折と言うことになってしまったのです。
現在は、やっと骨もつき、気持ちが安定してきているように見えます。
ところで、こういう姿を見ていると、どんな老後を迎えたいかと考えてしまいます。みなさんは、どうでしょうか。
多分、多くの人は「家族が明るく健康で朗らかに暮らせればいい」「ボケなかったらいい」等、考えられているのではないでしょうか。「明るく、健康、朗らか」が、いわば安楽な老後の姿と言うことです。
しかし、私たちの描く老後の青写真は全て、絵に描いた餅でしかありません。いくら私たちが思い描いたとしても、病気になったり、ボケてしまったりとした老後がやってくるかもしれないからです。
では、私たちは老後をどう考えればいいのでしょうか。
江戸時代に書かれた書物に、『近世畸人伝』というのがあります。その中に次のような話が載っています。
ある人が世捨て人となって山奥に入ったのです。山奥までの険しい道の途中には底を川が流れる深い谷があって丸木橋が一本かかっています。この丸木橋が山奥と里をつなぐ唯一のライフラインなのです。あるとき、世捨て人はふと考えます。
「もし、この橋が壊れたらどうしようか。里に下りられなくなり、食料は……」 不安だらけでいた世捨て人ですが、あるときふと悟るわけです。丸木橋が壊れて里に下りられなくなったら、それはほとけさまがそう決められたことなんだ。ほとけさまがお決めになって、わたしの命が尽きるだけのことじゃないか。
そう思ったとたん、不安はどこかへ飛んでいってしまい、世捨て人は安らかに暮らせるようになったのです。
私たちは、「明るく、健康、朗らか」な老後あって欲しいと願っています。しかし、それは執着でしかありません。だから、それに縛られ、不安になるのです。まさに丸木橋一本に悩む世捨て人と同じです。
だったら、どうなろうといいや、すべてほとけが決めたこと、居直ってみたらいいのではないでしょうか。
私も今日からそう思い続けることにします。
■□4月の法話■□
●腹がへれば飯を食う
皆さんには、最近、なにか忙しくてどうしようもないということや、行き詰まってしまっているなと感じることはないでしょうか。
私も年のせいか、よくこんな感じに襲われることがあります。それで、どうしようとかと考えてしまうのです。
考えてみれば、これはあくまで一時の感情でしかないようです。
ところで、こんな時に思い出す話が『頓悟要門』という、中国唐代の禅僧・大珠慧海の語録があります。
源律師という人がやって来て、「修行するにあたって、なにか工夫を用いられますか」と尋ねました。大珠禅師は、「工夫を用いる」と答えます。今度は、「どういう工夫を用いられるのですか」と律師が問うと、大慧は「腹がへれば飯を食い、眠くなれば眠る」と言います。そこでまた律師が、「世間の人は誰もがそうしていますが、それは禅師の工夫と同じものですか」問うと、大慧は、「同じではない」との答え。更に、律師が、「どうして同じではないのですか」と問うと、「他の人は、飯を食うとき、本当に食っていないで、あれこれ考えごとをしている。眠るときも本当に眠らず、いろいろのことを考えている。だから同じではないのだ」と大慧は答えたのです。それを聞いた律師は何も言えず、黙ってしまった、という話です。
この話を読むと、皆さんは大慧の言っている「腹がへれば飯を食い、眠くなれば眠る」ということは、当たり前のことではないかと思われるかもしれませんね。
しかし、どうでしょうか。私たちが寝ようとするとき、眠れないと苦しむことがありませんか。それは、、眠らないと睡眠不足になってしまうとか、明日は用事があって早く起きねばならないという思いがあって、よけいに眠れなくなっているのです。
大珠慧海が「眠くなったら眠る」と言っているのは、簡単なことのようで大変なことなのです。
食事も同じです。お腹が減っていないのに、時間がきたからといって、ご飯を頂いてしまう。あるいは、テレビを見ながら、ただ食べているだけ。それでは「腹がへったら飯を食う」ということにはならないのではないでしょうか。
禅の考え方は、今のやっている事柄を、ただただ、しっかりやるというところにあります。寝るときには、寝る。食べるときには、食べる。ただ、それしかないのです。
ということは、忙しいなと感じたり、あるいは行き詰まっているなと感じたら、しっかりできていないときなのです。そんな時は、どうこう考えるのではなく、とにかく素直に休むこと。そして、しっかり休んだ後、もう一度仕事をしたり、考えたりすればいいのです。
今をしっかり生きていれば、悩むときでも、怒るときでも、それぞれの時を生ききることができるはずです。楽しく生きましょう。
■□3月の法話■□
●相手の言葉にぐさっと……
私たちは、よく相手の言葉にぐさっときたり、かちんときたり、あるいは落ち込んだりすることがあります。相手は会社の上司であったり、学校の先生であったり、友達であったり、両親であったり、色々です。
そんな時、会社や学校に行きたくないというマイナスの思いが湧き起こっていきます。 「どうして、あんなことを言うのか」
「細かいことまでネチネチとうるいんだ」
相手の言葉が、思い出されて、また落ち込んでしまいます。
こんな時、どうすればいいのでしょうか。
まず、ゆっくり深呼吸でもしてみましょう。 そして、次は「橋は流れて水は流れず(橋流水不流)」という禅の言葉を思い出してみてください。
これは中国、六世紀の禅僧の傅大士の言葉です。
私たちの常識では、普通は、川の水が流れ、その上に架けられた橋は動いていないと思っています。しかし、禅は、それをちょっと逆にして眺めることを教えています。私たちが流れる水のほうに視点を置けば、水が固定していて、橋が流れていると見えます。私たちがいかに常識的な見方に縛られて、自由に物を見ることができないかを、禅は教えてくれているのです。
今の例で言えば、相手がぐさっとした言葉、かちんとした言葉を言ったのだから、当然相手が悪いと考えてしまっています。そして、どうもあいつはイヤなやつだと思って、その相手が近づいてくるだけで、ビクビクとしてしまうようになるのではないでしょうか。
しかし、こんな状態が続くと大変です。それより、もっとプラスに考えるべきと思います。こちらがどうでもいい人間であれば、相手はこちらを相手にはしてくれない。ましてよけいな言葉などいわないはず。ということは、自分の「修行の機会」と思ったらいいのではないでしょうか。
相手は動きません。だったら、こちらが動けばいいのです。この場合は、自分のこれが「修行の機会」と思って、見方を変えることです。これが、「橋は流れて水は流れず」なのです。
私たちは生けていれば、「思うようにいかないこと」が度々起こってきます。しかし、これを、自分を成長させる「修行のチャンス」だと思うと、毎日の出来事が、「新たな意味」を持ってくるのではないかと思います。
ひょっとしたら、イヤな言葉を発する人は、私たちにとっては仏さんかもしれませんよ。
■□2月の法話■□
●破れた草履(ぞうり)
禅宗には禅語というものがあります。それは、禅のこころを文字で表したものなのです。今月は「破草鞋」という言葉を取り上げてみました。
「破草鞋」とは、履き古して破れてしまった草鞋(わらじ)のことを言います。そこから、禅では利用価値のない、必要でないものを表します。つまり、これは私たちが普段持っている中途半端な知識というものが何の役にも立たず、かえって邪魔になるので、それを捨てなさいという時に使われます。もっと言えば、よけいなことを考えるなということです。
私たちの身の回りには、さまざまな「雑用」があります。なんだか雑用ばかりに思われることがあるほど、雑用だらけです。お寺で言えば、庭掃除、修繕、お茶出しなど。しかし、それらを「雑用」だと思うと、うんざりしてきていやになります。
それは、私たちが自分にとって、いいとか、悪いとかを判断しているからです。しかし、その判断の規準は何でしょうか。それは、世間の物差しでしかないのです。世間の物差しというのは、たとえば、健康はいいが病気は悪いという考えです。お金持ちが幸福で、貧乏人は不幸だ、というのも、世間の物差しです。それに囚われてしまっているから、「雑用」は駄目に思え、うんざりしてしまうのです。
禅の教えは、違います。「いま、ここで、わたしが」しなければならないことをしっかりしなさいと教えてくれます。だから、「いま、ここで、わたしが」なすべき仕事であれ、「雑用」と思われることでも、それをしっかりとする。そのような心構えでもってなすべきことをなすのが、禅の修行なのです。
禅の修行には、「静」の修行と「動」の修行があります。
「静」の修行は坐禅です。身心をひとつにして「静」に徹して本来の自己を見つけようとします。「動」の修行は作務(さむ)と言って、一般にいう労働です。お寺の清掃を行い、午後には薪割りや田畑での農作業あるいは山作務などを行っています。「動」の中にいる本来の自己を見つけようとするものなのです。禅の修行にとっては坐禅と作務は切り離すことのできない修行の両面なのです。
禅の修行には、世間の物差しは邪魔なものなのです。だから、知識をもっていても、破れたわらじ同様に役には立たない、と言っているのです。
皆さんにとって禅の修行なんて関係ないことかもしれません。しかし、人生を生きていく上には、「いま、ここで、わたしが」しなければならないことをしっかり生きるという姿勢は必要な時があるはずです。
時には、破れた草履をさっさと捨ててみることが必要かもしれませんね。
■□1月の法話■□
●好事(こうじ)も無きに如(し)かず
この言葉は禅の語録『碧巌録(へきがんろく)』第六十九則にある言葉です。
「好事」とは、私たちにとって、価値あること、都合の好いことです。しかし、それは、どんなに価値があろうと、それがあることで、分別や執着が起こり、煩悩・妄想のもとになるので、好いことや悪いことを分別したり、めでたいこと、好いことに執着する心を捨ててしまいなさいという意味です。
ところで、私たちはどうでしょうか。私たちは好いことはずっと続いて欲しいと思っています。そして、できたら、人生は平穏無事であって欲しいといつも心の中で願っています。何事も起こらず、坦々と日々が送れることができればいいと思っているからです。
しかし、なかなか現実はそうはいきません。例えば、人間ドックにたまたま入ったが、異常がみつかり、再検査。結果、癌だと診断されたとか。あるいは、会社の状況が悪くなって、リストラに遭ったとか。現実にはいろいろな嫌なことがやってきます。しかし、時には、好いこともやってきます。孫が結婚したとか、課長に昇進したとか。ただ、人生でやってくる多くのことが、嫌なことなのではないでしょうか。
そこで、私たちは、ついつい好いことのみを求めてしまう傾向があります。なんとか好いことだけやってこないかと願ってしまうのです。
しかし、禅では、こう願う心が執著になり、戒めます。私たちにとってはあたりまえのような願う心が、執着になるのです。好いことや悪いことを分別したり、めでたいことや好いことを願ったりすることでも、これに執著する心があると、私たちは苦しんだり、悩んだりしてしまうからです。だから、その執着する心を捨てなさいと言うのです。
私たちの心というものは、好いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しみます。しかし、そういう心の出てくる最も根本のところに本当の自分があり、好いことを喜ぶ心でもなければ、悪いことを憎む心もないのです。そういう喜ぶ心とか、憎む心とかいうものがなくなった人間の心の最も根源のところを、「好事も無きに如かず」という言い方をしているのです。
私たちは、好いことがあったら喜び、悪いことがあったら憎んだらいいのです。ただし、私たちの底にある心そのものは、本来は憎い心でもうれしい心でもないということを、ちゃんとわきまえていなければならないでしょう。
それには、好いことも悪いことも、一時の夢。忘れることが楽しく生きるコツかもしれません。
今年も、ぼちぼちと生きていきましょう。
今月の法話へ
法蔵禅寺HOMEPAGEへ