■□12月の法話■□



●みんな仲良くと言うが・・・・

 私たちがこの世の中を生きていると、どうしてもウマが合わない人間が一人や二人いるものです。そういう人物に、何か言われたり、批判されたりすると、ついついいがみ合うことになってしまいます。
 ところが、私たちは、小学校以来、「みんな仲良く」「人を嫌ってはいけません」などと教わってきました。しかし、大きくなると、そのことが如何にできないことかわかってきて、苦しむ羽目になってしまいます。こんな悩みをかかえている方は多いのではないでしょうか。
 ところで、仏教では、「怨憎会苦」(おんぞうえく)と言って、恨み憎む人に出会う苦しみは、人間の基本的な苦しみの一つであって、逃れることはできないと言われています。つまり、ウマの合わない人と仲良くしようとしても、土台無理な話ということです。
 では、ウマが合わない人間とどうしても接しないといけない場合、無理な話なのですが、それでも何か私たちがそれなりに生きていく方法はないのでしょうか。
 それには、仏教の「縁」というもので考えれば、ヒントがみつかるはずです。縁とは、相互関係性と言えばいいでしょう。
 例えば、満員の電車の中で、隣に座った人が誰かによって、こちらの心はころころ変わりますね。太った人がでんと座ると、もっと小さくなれと腹が立ちます。しかし、若い美人が座ると、もっとそばに来てほしいとと思ったりします。
 もちろん、相手によってこちらが変わるだけではありません。私たちに応じて向こうも変わってきます。相手の変わりに応じて私たちが変わり、その私たちの変わりに応じて相手も変わるのです。それが「縁」というものです。
 だから、他人に対して、あいつは気にくわない人だとか、あいつは憎たらしい人だなどと決めこんではいけないのです。たまたま私たちのとの縁で、しかも今という時点において、私たちとと彼とがうまくいかないだけなのです。その彼も、別の人とであればうまくいっているかもしれません。また、いつか、私たちとと彼とがうまくいくこともあるかもしれません。今はただそういう縁なのです。
 だから、対立し、いがみ合った時でも、あいつはいやな人なんだ、あいつが悪いんだ、と決めつけないほうがいいのです。
 仏教はすべて、「縁」「ご縁」ということで考えます。人間関係はまさに「縁」なのです。ご縁があればうまくいき、ご縁がないときはうまくいきません。それがわかると、気が楽になります。
 うまくいく人間関係もあれば、うまくいかない人間関係もあります。だから、うまくいかない人間関係の場合、それを無理してうまくいかせようとしないことです。今はご縁がないのだとあきらめ、上手にいがみ合うことを考えたほうがよさそうですね。


■□11月の法話■□



●がたがたの入れ歯

 ある本を読んでいたら、歯医者さんの次のような話が載っていました。
 ある年を取られたおばあちゃんが来られて、
「先生、わたしはこの入れ歯を30年近く使ってきました。非常によく出来た入れ歯で、なんの不満もないのですが、最近、一カ所だけ具合が悪くなりました。どうか直してください」
 と言われたそうです。
 歯医者さんはまず不思議と思ったそうです。それは、30年も不満なく使える義歯というのは聞いたことがなかったからです。そう思いながら、その歯医者さんはあばあちゃんの口を開け入れ歯をよく観察しようとしました。
 ところが、おばあちゃんがしばらく口を開けていると、その入れ歯は「コトリ」と落ちてしまいました。そこで、おばあちゃんは入れ歯をはめて、大きく口をまた開きました。しばらくすると、また入れ歯は「カタン」と落ちてしまう。何度やっても同じであったそうです。
 おばあちゃんの入れ歯はまったく合っていなかったのです。がたがたの入れ歯でした。にもかかわらず、おばあちゃんは30年間、なんの不満もなしに使ってきたのです。
「私たちは患者さんになんとかフィットする入れ歯をと思って努力してきました。ところが、このおばあちゃんの入れ歯はがたがた。まったく合っていない入れ歯で30年間過ごしてこられた。これじゃ歯医者さんとしてのやり甲斐がなくなってしまいそうです」
 と歯科医さんは言っておられたと書かれていました。
 私たちがこのおばあちゃんに思うことは、なんてのんきでなんだろうということではないでしょうか。
 もし私たちが入れ歯をしていて不具合があると、すぐに歯医者に行き、直してもらうはずです。だが、直しても、また次の不具合が生じ、また直しても、また不具合が生じてくる・・・・。本当に自分の口になじむようになるのはありえないではないでしょうか。入れ歯はやはり入れ歯。自分の歯ではないからです。
 結局、私たちには不満が募るのが関の山ではないかと思います。一度不満をもつとどういう訳か不満の連鎖が始まります。そして、私たちには、あのおばあちゃんのように、がたがたの入れ歯で満足なんてありえないようになってしまうのです。
 では、あのおばあちゃんのように生きるのはどうすればいいのでしょうか。
 仏教には、「少欲知足」という言葉があります。「欲望をできるだけ少なくして、足りることを知りましょう」「ガツガツするよりも、これで十分と満足しましょう」という意味です。つまり、「少欲知足」によってこそ、私たちは幸福になれるのですが、不満を言い立てることによっては、幸福になれないということです。
 まさにおばあちゃんは、「少欲知足」を生きている見本です。私たちもおばあちゃんにあやかって、「少欲知足」を生きれば、おばちゃんのような安らかな生き方ができるはずです。


■□10月の法話■□



●ともにこれ凡夫なるのみ

 私たちはよくミスを犯します。どんな人間であれ、ミスを犯さない人はいないと思います。
 例えば、友人とどこかで待ち合わせをする時です。たまたま出かける時に、電話が入り、話が長引いたとします。すると、予定したバスに乗り遅、約束の時間に間に合わないことがあります。
 そのとき私たちは、自分のミスを弁護するために言い訳を言ったりします。しかし、相手が遅れた場合は、そのミスについていっさい言い訳を許そうとはしないことが時にあります。ただ、その場合、私たちは大人ですから、表だってはイヤな気持は表しませんが、心の中では「こんなに忙しい私を待たせるなんてけしからん・・・・」などと思っています。そして、その後は食事をしても、話をしていても、そのことがずっと頭にあり、一日気分が悪い状態が続くことがあります。
 こんな時、みなさんはどういう解決をしているのでしょうか。
 多分、お酒を飲んだり、カラオケに行ったりして、イヤなことを忘れているのでしょうね。
 仏教では、違う解決法があります。
 曹洞宗の現代の名僧と言われた方に、沢木興道という方がいます。その言葉に、「だれでもみんな、メイメイもちの穴からのぞいた世界だけをみておるもんな。そしてこのメイメイもちの見方、考え方を、みんながもちよるもんじゃから、世のなかにはモメがおこる。」というのがあります。
 私たちはだれでも自分というものをもっとも大切なもの考えています。そして、自分の考えをもっとも正しいものと決め込んでいます。そこで、自分の考えを他人の行動や自分のまわりの事柄あてはめて、よいわるいを測ってしまいます。その結果、自分の考え通りゆかないと怒ったり、失望したりして、自分自身の悩みとしているのです。
 このとき「世の中はべつに自分一人のために回っている訳ではないし、自分の考えも絶対正しいというわけではない」と考えたらどうでしょうか。そうすれば、私たちは気持の上で、非常に楽に考えられ、生きることができるのではないでしょうか。
 日本語には「ありがたし」という言葉があります。本来は仏教語で、有り難い、つまり、めったにないという意味があります。
 待ち合わせの時間に友人が来なかったとしても、それを駄目だとは思わず、これが当たり前だと思えば、私たち自身の気持ちは楽になります。また、ちゃんと時間に来たとしたら、不思議だ、ありがたい(有ること難し)と思えば、気分がいいのではないでしょうか。
 「ともにこれ凡夫なるのみ」と聖徳太子は言われています。相手だけが凡夫なのではなく、自分自身も凡夫なのです。つまり、誰でもミスをするのは当然と思え、他人を許せるようになるでしょう。これば仏教的解決法です。


■□9月の法話■□



●風流ならざる処、また風流

 人間は感情の動物と言われます。だから、私たちだれにでも感情の浮き沈みがあるはずです。
 今朝はすがすがしく目覚めたから、「きょうは何をやってもうまくいきそうだ」という晴ればれとしたプラスの気分の時があれば、「朝からなんだか気分がすぐれない」という憂鬱なマイナスの気分のときもあります。
 しかし、私たちが感情の浮き沈みを、そのまま表に出してしまうとどうでしょうか。それは子供じみている行いと思われるのではないでしょうか。  朝からテンションが高く、「さあ、今日もはりきっていこう」などと声を張りあげている日があるかと思えば、一日中ブスッとしている日もある。そういう人は、「何かあったの」と尋ねても「別に」と、話しかけられることが迷惑だといわんばかりの態度なのです。
「ああいう人とは、どうつきあっていけばいいかわからない」と敬遠されている人というのは、本人にも訳はあるでしょうが、「いやな空気」を周りの人々にまき散らしているのではないでしょうか。あなたはいかがでしょう。自分を振り返ると、そんなことが一つや二つ必ず思い起こされるはずです。
 誰にでも不機嫌な時はあります。では、そんな時、どうすればいいのでしょうか。  禅の言葉に、「不風流処也風流」(風流ならざる処、また風流)といものがあります。この言葉の意味は、「風流ではないところが風流だ」ということです。「風流」というと「趣味を楽しむ」「遊び心がある」といったことを思い浮かべますが、ここでは「しみじみと心の休まる趣のある精神世界にいる」という意味だと思えばいいでしょう。
 不機嫌になるというのは、「不風流」ということです。私たちはいろんなこだわりをもってものを見ていますが、それをこだわりなく見ようとするのが仏教です。つまり、仏教は私たちの見方を変えないと、心の平静は得られないと教えるのです。禅はまさにそのことを端的に教えてくれます。
 私たちは何時も上機嫌でいることはありません。時に不機嫌になる時もあるでしょう。その原因は私たちのこだわった見方です。そんな時は、この「風流ならざる処、また風流」という言葉を心に唱えればいいのです。
 あるいは、お酒を飲む時、食事を頂く時、いつも「おいしい」と口にする訓練をしたらどうでしょう。
 たとえ気分が落ち込んでいる時でも、口に出して「おいしい」と唱えることです。そうすれば、気分は徐々に変わってくるはずです。こだわりがどこかへ飛んでいき、楽しくお酒が飲め、楽しく食事が頂けるでしょう。「風流ならざる処、また風流」です。
 過去の失敗をいつまでも悔やんだり、起こった不幸にくよくよと悩んでいてはいけません。「今はこれでいいんだ」として、今をしっかり受け止め、今を精一杯生きればいいのです。


■□8月の法話■□



●悩みがあるのは、生きている証拠

 生きていると、私たちには悩みが必ずといっていいほどあります。
 例えば、
「会社の上司の言い方がイヤでしょうがない」
「この不景気、自分の会社は大丈夫だろうか」
「もっと顔がよかったら、女性にもてるのに」
「旦那の機嫌が何時も悪いので」
 など、など。
 どこかで、私たちはひょいとイヤな気分になったり、不安を感じたり、心配になったりして、悩みをもちながら生きています。
 だから、私たちが思うことは、この「悩み」がなかったらいいのにと思ったり、くよくよせずに生きたい思ったりします。特に、何事にも一生懸命に生きようとしている人ほどこの傾向は強いのではないでしょうか。
 しかし、「悩み」は私たちからなくなることはないのではないでしょうか。なぜなら、私たちの心配や不安、悩みは雑草のようなもので、抜いても抜いても必ず次から次へとはえてくるからです。つまり、わたしちは生きているかぎり、どこまでいっても、心配や悩みと無関係に生きることはできないのです。
 では、どうすればいいのでしょうか。
『法句経』というお経の中に、次のような言葉があります。
「萎(しお)れたる花びらを
 すて落とす
 パッシカの花のごとく
 乞食するものらよ
 かくのごとく
 むさぼりと
 怒りをふりすてよ」
 これは、パッシカ(ジャスミン)の花が、しおれた花びらをふるい落とすように、「貪り(むさぼり」と「怒り」を捨て去りなさい、ということです。
 しかし、多分これだけでは何を言っているのかわかりませんね。わかりやすく言うと、私たちは、つい悩みがなかったらいいと思ってしまいます。そこで、悩みがなくなるためにはどうするかと考えてまた悩んでしまいます。そうではなくて、悩みを無理に捨てようとするのではなく、そのまま残しておき、新しい感情や考え方が自分の中にできてくるのを待てば、花の下に実ができて花が落ちるように、自然に悩みを忘れ去ることができるということです。
 例えば、私たちは何かで怪我をしても、軽い傷であれば、放っておけば自然に治ってしまいます。いくら早く治れといっても治りませんが、私たちにある自然治癒力によって傷が治ってしまいます。それと悩みも同じ。無理に悩みをなくそうと思わず、次々に生じることに目を向けていれば、自然に悩みも消えてしまうとういことです。
 私たちから悩みがなくなることはありません。だから、悩みがあって当たり前と思うべきです。ところが、ゆっくり待てば、悩みもどこかへ飛んでいってしまのです。
 悩みがあるのは、生きている証拠。悩みながら、生きましょう。


■□7月の法話■□



●「いい人」であるために

 飲み会があると幹事役を引き受け、連絡を行い、料理の注文、支払い。そして、二次会のセットまで、すべてに気が利く人。
 また、何か困ったことがあればその人に聞けば、なんとかなる人。
 私たち周りには、困った時の神だのみではないのですが、このような「いい人」は必ず一人や二人いるはずです。
 しかし、この「いい人」も度がすぎると、時に次のような思いを抱くことがあります。「本当はこんなことしたくはない」「もう、損な役回りを押しつけられるのはごめんだ」  そして、ある日突然キレることだってあるのです。  そこまでいかなくても、「いい人でいることに、ほとほと疲れた」という思いを抱えている人も少なからずいます。
 昔、信濃の国(長野県)に信州一といわれる孝行者がいました。ある日、この噂を聞きつけて、摂津(大阪)一の孝行者という男が、いったいどのような孝行をしているのか、自分の目で見たくてやって来ました。
 摂津一の孝行者が信濃に着いたとき、あいにく信州一の孝行者は山に薪をとりに行っていて留守。しばらく待っていると、彼が薪を背負って帰ってきました。すると、母親と思われる老婆が飛んできて、息子の薪を降ろしてやります。そして、わらじの紐をといて、水を汲んできて息子の足を洗ってやっています。彼は黙って老母にすべてをやらせていたのです。
 その上、座敷に上がった息子はごろりと横になり、母親に自分の腰さえもませはじめたのです。
 これをみて、摂津一の孝行者がかちんときました。大声で、
「このいんちき者め。信州一の孝行者が、聞いてあきれらあ。おまえは、日本一の親不孝者ではないか」と。
「わしは孝行というものがどういうものか知らん。ただ、母親が喜ぶようにし、母親がしたいようにさせているのだ」
 と、信州の孝行者は答えたのです。この言葉に、摂津の孝行者は思わずうなってしまいました。「なるほどそうか・・・・。それが本当の親孝行なんだなあ。わしのは単なる形式的な親孝行であったわい」と。
「いい人」は、常に自分自身で「いい人」でありたいと思っています。時に、イアだなと思っても、「いい人」をやめることができないのです。どこかで、形式的になっているのでしょう。だから、時にそんな自分がイヤになるのです。
 私たちは何事にもとらわれずに無心にやろうとしても、なかなかそうはいきません。どうしても何かに「こだわり」ながら生きてしまいます。「いい人」でありたいというのも自分に対する「こだわり」。
 たまには、自分の気持ちに素直になって、断ってみることも必要ではないでしょうか。これが、とらわれから離れる方法です。そうすれば、「いい人」で生きることがもっと楽しくなるはずです。


■□6月の法話■□



●よいこともほどほどに

 生きていると私たちには悩みが尽きないものです。
 例えば、今の会社での仕事が嫌で、会社をやめたとしても、この不景気。職探しという新たな悩みが生まれてきます。また、彼氏との関係が嫌になって別れたとしても、しばらくするとやっぱり別れないほうがよかったかなと後悔したりします。こんなことは私たちが生きていれば、多々あります。もっと言えば、生きていると、悩んだり、くよくよしたりするのがあたりまえということです。
 お釈迦さまは、私たちが生きているこの世界を「苦の世界」と言われています。そして、人間の基本的な「苦」を四つに分類しました。生、老、病、死・・・・これを「四苦」と呼びます。そして、この四苦に加えて、お釈迦さまはさらに四つをあげられています。愛別離苦(あいべつりく・・愛する者との生別、死別)、怨憎会苦(おんぞうえく・・怨み憎む者と出会う苦)、求不得苦(ぐふとっく・・求めるものが得られない苦)、五取蘊苦(ごしゅうん・・人間存在そのものが苦であること。五取蘊とは精神と肉体の意)です。合わせて「八苦」。日本でいう四苦八苦とはここから出たものです。お釈迦さまは、この苦の原因は何かを考えて、ついに「渇愛(かつあい)」に原因があると結論されたのでした。そして、苦からの克服され、安心を得たのでした。
 そう言われても、私たちはお釈迦さまのようにはいきません。どうしたら、私たちは悩みや不安、心配という苦しみと付き合っていけるかです。多くの方は、悩みや不安を引き起こしている原因を探していけば、解決できる考えてしまうのではないでしょう。
 しかし、それでは、苦しみはもっと増し、苦しみの渦に巻き込まれてしまうのではないでしょうか。たたかおうとすればするほど、どんどん大きくなっていくからです。
 生きていくことは苦ばかりです。だとすれば、人生は苦しくて当たり前と、開き直って生きるほかないのではないでしょうか。それには、問題やその原因をひとまずは脇に置き、目の前の「やるべきこと」をできるだけ淡々とこなしていくことがよいのではないでしょうか。
 あれこれ考えても、それは答えのでない問題です。それより、目の前のやるべきこと、例えば勉強でも仕事でも何でもかまいません、それを行っていくと、いままで感じていた悩みや不安、心配という苦しみを忘れしまうということがあります。嫌な気分がスーッと軽くなっていってしまいます。そして、数日後には何を悩んでいたのか、すっかり忘れてしまているものです。
 悩みや不安、心配という苦しみがあるのは当たり前です。それを、そのまま頂いて、右往左往するのではなく、開き直って、自分を成長させる「きっかけ」にすることです。こんな生き方が、仏教的なプラス思考の生き方ではないかと思います。


■□5月の法話■□



●よいこともほどほどに

 近所にはいろいろな方がいます。その中の一人ですが、「環境にやさしく」ということで、牛乳パックをきちんとスーパーなどに持って行く方がいます。確かにそのこと自体は立派なことで、反対のしようもないことです。しかし、よく考えてみれば、牛乳パックをそのまま持って行く訳ではありません。水道の水を使って、洗わねばなりません。1枚や2枚であればいいのですが、まとめて何枚もとなると、多量の水が必要になります。その水道代はどれくらいになるのでしょうか。これでは、「環境にやさしい」ことをしているのですが、水の無駄遣いになってしまうのではないでしょうか。
 さて、曹洞宗を開かれた道元の言葉を弟子の懐奘が筆録した『正法眼蔵随聞記』という書物があります。その中に次のような話があります。
 道元禅師がある日、唐の道宣が著した『続高僧伝』の中に、次のような話があります。
 ある禅師の門下に、一人の僧がいました。彼は金の仏像と仏舍利をいつも香をたいて礼拝していました。ところが、あるときこれを知った禅師が、
「おまえがうやまっている仏像と遺骨は、後になっておまえによくないことがあるだろう」といって注意しました。
 だが、この僧は納得しなかったのです。
 彼が憤然とするのは、むしろ当り前かもしれません。仏像を拝し、仏舎利をあがめるは、僧として当然の行為ですし、非難される筋はないと彼は考えたからでしょう。
 しかし、禅師はなおも忠告されます。
「お前は、悪魔にだまされているのだ。お前が大事に持っているその箱を開いて見よ」
 僧は、訝しく思いながらも、それでも箱を開いて見た。すると、仏舎利と思った箱の中には、毒蛇がとぐろを巻いていたのであった。
 この話を考えてみると、「仏像や舎利はお釈迦様の遺像と遺骨であるから、うやまわなければいけない。かといって、ただあがめていれば悟りが得られると思うのは、かえって間違った考えで、かえって誤った見解をなすことになるのである」と。
 つまり、私たちは、ある一つのことを「これがよい」と判断すると、どうしてもそれに固執してしまいます。周囲の事情がすっかり変わってしまっているにもかかわらずです。そして、それに気づかず、いちどつくりあげた信念を後生大事と守ってしまうのです。よいことほど、始末に悪いものはないようです。
「環境にやさしく」という立派な信念の持主は、そこのところに気づこうとしないのです。これはまさに仏像を礼拝しつづける僧と同じではないでしょうか。
 私たちは普段、よいことや、立派なことをすることがいいことだと思いがちです。しかし、それにこだわりすぎると困ったことになってしまいます。よいことや、立派なことをするにも、ほどほどにということでしょうか。ものごとのわけへだてをしないで、こだわらずに何事も行いましょう。


■□4月の法話■□



●あれこれ考えずに

 今、京都は桜が満開です。  花が開いてから天気が続き、気温がどんどん上がっています。何時であれば、雨が降って、桜が散ってしまうのですが、天気のおかげで、今年の桜は長い間楽しむことができます。
 人によって違うと思うのですが、多くの人は晴れのほうが好きではないでしょうか。雨が降っていると、用事があって出かけないといけない時などは、億劫な気持になってしまいます。できたら、出かけたくない気持になってしまいます。
 こんな時はどうすればいいのでしょうか。
 鈴木正三という江戸時代の禅僧がいます。三河国(愛知県)の武家に生まれ、徳川家康、秀忠に仕え武功があったのですが、四十歳のころに突如剃髪して禅僧になった一風変わった禅僧です。この鈴木正三がこう言っています。

「何事を作(なさ)んと思とも、思ひ立と其儘(そのまま)分別なしに作(なし)たるが好(よき)也。後に杯(など)と思は悪し。亦余所ゑ行んと思ふにも、如是すべし。機の発すると、其儘ふと出で行べし。後にと思べからず。縦(たと)ひ雨降、雪降とも、面白雪哉、童べの時分は、雪遊びせしものをと思ひ出づべし。万事如是無分別に仕習ゑば、殊外心の軽く成物也」
 意味としては次のようなことです。
 何かをしようと思ったら、そのままあれこれ考えずにしたほうがよいでしょう。あとで・・・・と思うのはよくないのです。また、外出しようと思ったときも同様です。気が向いたとき、そのままさっと出かけるべきです。あとで・・・・と考えてはいけない。たとえ雨、雪であっても、おもしろい雪だ、子どものころは雪遊びをしたなあ・・・・と思って出かけるべきです。すべてこのように思案なしにしていると、心は思いのほか軽くなるものです。
 これは、鈴木正三の『驢鞍橋(ろあんきょう)』という書物に出てくる言葉です。  私たちは、何かしようとしたら、あれこれ思案してしまいます。そして、結局迷ってしまい、何もしないで終わってしまうのではないでしょうか。
 しかし、正三は思いついたら、その瞬間にぱっとやってのけないさいと言います。例えば、家内にパンでも買って帰えってあげよう、ケーキでも持ち帰ってあげよう、と思ったら、そうすればいいのです。以前、ケーキを買って、「あの店はこのチーズケーキより、苺のショートケーキが美味しかったの・・・・」と言われたことを思い出してはいけません。鈴木正三はそうすすめているのです。
 雨が降っていても、出かけるのは嫌だと思わないこと。あれこれ考えずに、出かけたらいいのです。何か、楽しいことに出会うかもしれませんよ。


■□3月の法話■□



●仙高フ「老人六歌仙」

 「老人六歌仙」
 志わかよるほくろか出来る
 腰まか(る)頭かはけるひけ白くなる
 手ハ振ふあしハよろつく
 歯ハ抜ける耳ハきこへす
 目ハうとくなる
 身に添ふハ頭巾襟まき
 杖へ目鏡たんぼ
 おん志やく志ゆひん孫の手
 聞たかる死とむなかる
 淋しかる心か曲る欲深ふなる
 くとくなる氣短かになる
 愚癡になる
 出志やはりたかる
 世話やきたかる
 又しても同し咄に子を譽る
 達者自まんに
 人ハいやかる

 この歌は仙高フ「老人六歌仙画賛」(出光美術館蔵)に書かれた言葉です。
 老人になると、誰しも、皺が増え、髭は白くなり、足がよろつき、歯は抜けてきます。耳が遠くなり、目も悪くなって、メガネなどが手放せなくなります。死にたくないといっては淋しがったり、何事にもくどくなり、愚痴っぼくなってきます。でしゃばりたがって、何度も同じ話をしては我が子を誉め、最後は、自分の達者自慢をして人にいやがられるのです。
 これらのことは、年を重ねると誰もが経験することでしょう。これを年取ったからといって、どうせ老いているのだからと諦めらめてしまう生き方もあるでしょう。しかし、仙高ヘそういう生き方ではないことをこの歌で言っているのではないでしょうか。
 女性は、自分の年齢よりもっと若く見られたいという思いが強いように思います。例えば今五〇歳であれば、せめて四〇歳ぐらいに見て欲しいのではないでしょうか。そのために、若返りのサプリメントを飲んだり、整形をしたり、化粧法を学んだりすることでしょう。ところが、その努力の甲斐なく、年相応にしか他人から見られないとすると、その女性の悩みは深くなります。しかし、その女性は実年齢が五〇歳です。事実に向き合っていないのです。
 私たちが悩む原因はここにあります。つまり、私たちは、「思い」と「事実」の距離が離れていればいるほど悩むのです。事実を直視することで、思いと事実の距離は縮まってきます。「私は五〇歳。もう若くなることはない。この年齢は今しかないからこそ、この年齢を楽しもう」という気持ちになれば悩みは解消するはずです。
 仙高ェ私たちに教えようとしていることは、老いを悲しむのではなく、まさに老いを楽しんで生きなさいということなのです。それには、年を取ることは誰しも避けられない事実をまず認めなさいということです。
 仙高フ描いた老人達は、皆おおらかで、のびのびとしています。それは、若く見せようなんて考えずに、老いの事実を認め、老いを楽しんでいるからではないでしょうか。


■□2月の法話■□



●「ありがとう」を求めない

 主婦は大変だなと時に思うことがあります。例えば、食事を家族のために毎日毎日三食つくることです。
 食べる方は、「いただきます」と言って食事はするものの、「おいしかった」「ありがとう」とはなかなか言わないものです。食事が終われば、「ごちそうさま」は言うものの、後はそそくさとテレビを見たり、何かのことで席をたったりです。
 多分、このようなことが各家庭では繰り返されているはずではないでしょうか。せっかく家族のために食事をつくったにもかかわらず、何の反応もないのでは、食事を作る意欲が主婦の方からもなくなってくるのではと思ってしまいます。それでも、主婦は何も言わずに食事をつくり続けてくれています。ありがたいかぎりですよね。
 ところで、ある料理屋の主人の話。その方はお客さんの「おいしかったよ」や「ありがとう」のひとことを日々の仕事の励みとしているそうです。しかし、お客のなかには「おいしかった」も「ありがとう」も何も言わずに帰っていく人もいます。そんな時でも、「同じお客さん。おろそかにしようなんて思いません」と言われていました。
 これはいい言葉ですよね。「ありがとう」と言ってもらうことは心の励み。しかし、こちらから「ありがとう」を求めることはないということです。
 これは、まさに仏教の「布施」の教えです。
 布施と言うと、皆さんが思うのは、法事やお葬式の際にお寺にお渡しするお金のこと考えられる思います。しかし、本当は、見返りを期待せず、人に施すことを「布施」と言います。大切なことは、無心で施すことです。してあげたから、代わりになどと、心のどこかに少しでも見返りを求める気持ちがあれば、本当の布施とは言えないのです。  ところが、私たちは、「ありがとうもいってくれない。ぜんぜん感謝してくれない」と、イライラしていることことが多々あるのではありませんか。
 例えば、上司から頼まれて、先週は休日出勤することにしました。翌日に上司に会った時です。上司はなにくわぬ顔。その時、私たちは、「頼まれて休日に出勤したのに、ありがとうの一言もない。まったく感謝の気持ちなんてまったくないのか。あたりまえだ、みたいな顔をしてやがる」と思ったことがないでしょうか。
 確かに、上司も上司です。「ありがとう」と一言言えばいいでしょう。しかし、「ありがとう」と言ってくれないからといって、怒るのは、そこに当然感謝されるべきという気持があるからでしょう。
 「ありがとう」は求めないこと。私たちは、やるべきことを坦々行い、自分の誠意や親切が相手に伝わろうが伝わるまいが、どちらでもいいと思えばいいでしょう。そうすれば、心おだやかでいられるはずです。
 料理屋の主人にならって、気持ちよく生きるには、「ありがとう」を言ってもらうことを励みとするが、相手に「ありがとう」を求めない心構えが大切でしょう。


■□1月の法話■□



●仙高ウんの恵美須図

謹んで初春をお慶び申し上げます。  旧年中はひとかたならぬお引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。
 皆様にはつつがなく新しい年をお迎えになったことをお喜び申し上げます。
 本年は当寺として皆様のご満足が頂けますよう、ホームページの更新を行っていく所存でございます。本年も変わりませずよろしくお願い申し上げます。
 新しい年を迎えまして皆様のご発展とご多幸をお祈り申し上げます。

 さて、今年初めての法話です。今回は私の大好きな禅僧仙高ウんのお話です。
 その仙高ウんが、ゑびす(恵比須、恵美須、戎などとも表記されます)さまと一匹の鯛を描いた絵に、
「足ることを知ればこそあれ福の神 二匹鯛釣る恵美須なければ」
 と書かれたものがあります。
 恵比須さまは、七福神のお一人。京都では、建仁寺に近い京都ゑびす神社が有名です。一月十日は「十日戎」と呼ばれ、最も福が授けられる日として初詣客が殺到します。福笹とよばれる笹が、ゑびすばやしと呼ばれる「商売繁昌、笹もってこい」の掛け声も華やかに、巫女さんから笹の授与が行われます。
 その起源は、漁師の神さまにあります。昔、漁師たちは恵比須さまに大漁を祈りました。そのうちに、海産物の売買といったところから市の神となり、商売繁栄の神として、広く商家の人たちに信仰されるようになりました。その結果、恵比須さまはは福徳をもたらす「福神」とされるようになったのです。
 仙高ウんは、この絵と言葉で、福を求める私たちに何を伝えてくれたのでしょう。
 仏教には、「少欲知足」という言葉があります。「欲望を断つのではなく、できるだけ少なくして、足りることを知りましょう」「ガツガツするよりも、今あることに、これで十分と満足しましょう」という意味です。
 はたから見ても、すべての品物が揃い、十二分に幸せだろうと思えるそうな人がいます。しかし、よく見ているとその人は、「まだまだ」「もっともっと」と、何かを求めて続けています。欲がエスカレートして、いつも何かが足りないのでしょう。
 しかし、足ることを知っている人は、たとえ病気であろうと、ホームレスのような生活をしていても、心は十分に満たされています。逆に、足りることを知らない人は、立派な家に住んだとしても、心が満たされることはないのです。
 欲をなくしなさい、というのではありません。欲望がまったくなくなってしまったら、ぬけがらのようになってしまいまいます。欲を少なくでいいのです。いつも欲を少なくすることを心がけていれば、自然に足りることを知る気持ちがわいてきて、今ある状態に感謝できるようになります。
 足りていると感じるか、足りないと感じるかは、自分次第。その心の持ち方ひとつで、幸せにも不幸にもなるのではないでしょうか。二匹の鯛を釣る恵比須さまはいません。それは一匹で充分満足と思っているから恵比須さまは福の神なのです。私たちも一匹の鯛のありがたさを喜びましょう。

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