■□12月の法話■□



●落ち葉

 法蔵禅寺ではいままで紅葉していたモミジが、風が吹き、雨が降るたびに散っていきます。大量の落ち葉です。朝起きて掃除をすると一汗かいてしまいます。
 この時期になると、思い出す言葉があります。それは良寛さんが亡くなる前に残した言葉です。

 裏をみせ表をみせて散る紅葉(もみじ)

 というものです。
 意味としては、「人間はいいも悪いもすべて見せても安心して元のところに帰っていくよ」ということだと思われます。
 良寛さんはみなさんもご存じの通り、禅宗のお坊さんです。18歳の時出家して、岡山にある円通寺で修行し、10年のち師匠の国仙和尚から禅僧として認められました。しかし師匠の死後、さらなる修行のため行脚に出、晩年は国上山の五合庵に落ち着きます。この後は子供と遊ぶ日々が続くのです。
 この時の生活はまさに清貧という名にふさわしい生活を送ります。昼は托鉢し、夜は坐禅。持ち物と言えば破れた衣に鉢が一つぐらいではなかったでしょうか。
 69歳ごろ病に伏せる日が多くなると、貞心尼という若い尼との暖かい関係ができ、和歌を取り交わすようになります。そして1831年(天保2年)についに良寛は74年の生涯を終えます。
  良寛さんの生き様は煩悩を少しづつ削っていき、そして最終的には童心にもどっていかれたように思います。その良寛と比べて私たちはどうでしょうか。
 「お金さえあれば、幸せ」とこころの底では思っていないでしょうか。戦後から高度経済成長、そしてバブル。日本人は多分、「お金があれば幸せになる」と思って、ひたすら働いてきたのです。しかし、現在は低成長の時代。かといって、今までの思いがなくなるはずはないでしょう。いったんお金持ちになろうとすると、どんどんエスカレートして、その思いには上限がないからです。
 だから、戦後の時と比べて、現在が幸せになったか言えば、答えは「いいえ」としかいえないと思います。
 良寛さんの生き様、それに最後の言葉を思うとき、今からでも安心して貧乏になろうとしてもいいのではないかと思えてきます。それは多分、良寛さんがどろどろの世をすべて離れ、葉っぱが枯れて落ちていくように元のところに帰っていく軽やかさがあるからではないでしょうか。
 今年も後少し。私たちも良寛さんに習って、今年身につけたどろどろのものを新しい年が始まるまで、少しずつ落とすことをしてみてはいかがでしょう。多分、新しい年には少し軽やかな生き方が始まるはずです。


■□11月の法話■□



●茶に逢うては茶を喫し

 だいたいいつもそうなんですが、私は原稿を書く時とか本を読む時はタバコを手にしています。そうすることによってよい考えが浮かんでくるような感じがするのです。これは学生時代から習慣になっています。
 ただ、最近家内に怒られることがあります。それは、夢中になっているとさっき火をつけたタバコを灰皿に置いたまま、次のタバコに火を付けてしまい、先のタバコの煙が灰皿で燃えていることに気づかないでいることです。タバコを吸わない家内にとっては非常なる迷惑らしいのです。
 だから、言われると小さくなっています。それでも、すぐに忘れてしまうのですが、・・・・。
 禅宗の一つ曹洞宗の第4代に瑩山禅師という方がおられます。その方の言葉に、

 「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」

 という言葉があります。
 意味は、お茶を飲むときはひたすらお茶を飲みなさい。ご飯を食べるときはひたすらご飯を食べなさいという意味です。これは、あまりにもあたりまえなことですね。
 でも、実際にこれをしようとすれば、どうでしょうか。例えば、音楽を聴きながら勉強する。新聞を読みながら、テレビを見ながらご飯を食べている。タバコを吸いながら本を読んでいる。お茶を飲みながら、何か考えている。どこかで「ながら族」になっているのが現実のわたしたちではないでしょうか。
 禅はあたりまえのこと、平凡なことをやることが大切と教えます。それには「ながら族」をまずやめないといけませんね。
 わたしにとっては本を読みながら、原稿を書きながら、タバコを吸わないことから始めないといけないようです。
 わたしにとって家内の言葉は、老師(悟り開いた禅の指導者)が本筋に戻れと叱る言葉と同じように感じられます。



■□10月の法話■□



●怨みは怨をもってはやまない

 先月、アメリカでは貿易センタービルがテロの攻撃に会い、多くの犠牲者を出ました。それからというもの、アメリカはその首謀者をビンラディン氏とし、タリバン(アフガニスタン)に報復攻撃をしようと、着々と準備が進められているようです。
 しかし、このアメリカの報復攻撃が開始されると、タリバンも攻撃を行い、戦争状態になってしまうことだと思います。日本もアメリカに後方支援といっていますから、間接的といいながら、タリバンにとっては敵国と思われることでしょう。
 ところで、このような問題に仏教ではどう考えればいいのでしょうか。
 『法句経』というお経があります。それには次のような言葉があります。

 怨(うら)みは怨みをもっては
 終(つい)には休息(やむ)ことを得べからず
 忍を行ずれば、怨みを息(や)むことを得 此を如来の法と名づく

 意味としては、憎い相手を恨んでいるだけでは何も解決しない。恨みは恨みを生み、延々と果てしない恨み合いが続くだけです。恨みを忘れてこそ、新しい道が開けてくるということです。仏教としては、恨みの解決に報復を取ることを否定しているのです。
 ところで、私たちが生活している場面でもこのようなことはあります。私たちは日常生活で、しばしば腹を立てたり、癪にさわったりすることがあります。ま、それで収まれば、何と言うことはないのですが、そのことをきっかけにして恨みや憎しみの感情に変わってしまう時があります。そうなると、後はどうしようもない。会うたびに、憎しみや恨みが増してきます。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」ということです。
 しかし、これではどこまでいっても私たちの気持ちはすっきりしません。まさに、恨みはやまないということです。私たちには『法句経』の言う、恨みを忘れることはなかなかできません
 じゃ、どうすればいいのでしょうか。
 インドの神話にアスラとインドラという神様の話があります。アスラは正義の神、インドラは力の神です。
 アスラには美しい娘がいました。アスラはインドラに心を寄せていて、自分の娘をインドラに嫁がせたい願っていました。
 ところが、インドラは彼女を無理矢理犯し、自分の宮殿に連れ去ってしまいました。  父親のアスラは、怒ります。武器をとってインドラに戦いを挑むのです。しかし、インドラは力の神、どんなに戦ってもアスラは勝てません。負けてしまいます。
 それでも、アスラの怒りは収まるわけがありません。何度も何度も戦います。何度負けてもアスラは戦いを繰り返すのです。
 仏教はこの神話にもとづいて、敗北者のアスラを「阿修羅」または「修羅」と呼んで魔神にし、勝利者のインドラを「帝釈天」と呼んで、護法の神としました。
 後日談としてインドラはアスラの娘と結婚し、幸せに暮らしたとあります。
 普通に考えれば正義のアスラがいいと考えるのですが、仏教はこの話から、正義にこだわると悪に変わる。つまり、「こだわってはいけない」と教えているのです。
 今回のアメリカの国民も娘を犯された阿修羅と同じ気持ちをもっていると思います。確かにビンラビン氏がテロの首謀者ということですから、彼には非があることでしょう。だからといって、阿修羅のように何度も何度も戦いをおこなっていくとどうなるでしょう。アメリカは阿修羅と違って、勝利を収めることがあるかもしれません。しかし、それで、本当に心が落ち着くのでしょうか。
 アメリカには修羅から人間にもどって欲しいと思います。それには正義にこだわることをやめることです。怒りをそのままにして、アフガニスタンに対する「やさしい思いやり」ではないでしょうか。ビンラディン氏がアメリカの怒りによって、どうなる訳でもないのです。逆に、思いやりの心が彼をテロの道から抜け出させてくれるのではないでしょうか。
 これは理想主義かもしれません。確かに、私たちの心の中には「自分が正しい」という思いは、生きている限りなくなることはありません。凡夫なのです。だからこそ、凡夫ということを自覚して、仏や神に「我をあわれみたまえ」と祈るしかないのではないでしょうか。消極的なことかもしれませんが、このようなところにしか今回のテロの収束はないかもしれません。これが仏教の考えから見た、今回の事件の解決策と思われます。
 これを書き終わった時点で、アメリカはタリバンに攻撃を始めました。もうこれで、泥沼になると諦めないで頂きたい。私たち仏教徒として、アメリカと同じように私たちも修羅の心をもっていることに気づき、平和を祈ろうではありませんか。そうすれば必ず、この戦いは早急に解決するのではないでしょうか。



■□9月の法話■□



●愚直に

 わたしたちは何気なく他人の評価を気にしながら生きているところがあります。これをやったらどう思われるかとか、あれをしたら他人はよく見るだろうとかを考えて行動しています。どこかに他人によく思われたいという意識が働くのでしょう。
 だから、わたしたちは目立った仕事とか行為をしたがるのです。いや、私は違う。目立つことはイヤだと思われる方も意識は同じなのです。と言うのは、どちらにも他人に対する意識が働いているからです。
 わたしたちの人生は芝居の舞台だと言われることがあります。わたしたちはそれぞれに、男の役割、女の役割、金持ち、貧乏・・・・と無限の役割の中の一つを果たしています。いい役もあれば損な役もあります。しかし、自分に与えられた役を務めなくてはいけないのです。
「縁の下の力持ち」という言葉があります。縁の下のような陽の当たらない、人目につかないところで、大切な役に立つことをしている人と解されています。役割で言えば、損な役割の人かもしれません。
 しかし、舞台は、主役、脇役、それ以外の役、それに裏方の人がいなくては舞台はなりたちません。そして、それぞれがそれぞれの役をきちんと務めなければ、いい舞台とは言えないでしょう。
 人はとかく目立った役をしたがるものです。しかし目立たないところで黙々と働く人のおかげで、目立つ役が輝いていくのです。
 禅では、他人の評価を気にするなと言います。人をうらやむのではなく、他人が見ていないところでの行いに全力を尽せよと教えるのです。
 洞山良价という昔の禅僧は、「潜行密用(せんこうみつよう)、如愚如魯(にょぐにょろ)」と言っています。愚者のように、潜(ひそ)かに目立たぬように行う、ということ。つまり、ささやかな仕事、目立たぬ仕事に全霊をを尽くせ、利益や売名のためではなく、人間としてなすべきことをただ「行え」と言うことです。
 どんな役であろうと、よそ見をせず、わたしたちは愚直に生きることが必要ではないでしょうか。



■□8月の法話■□



●寝ること

 今年の夏の暑さは異常です。朝起きて、お経を上げ、庭掃除をすると、もう汗だくだくになってしまいます。
 だから、外の作業は涼しい内にすることにしています。朝食の後、また掃除をしますが、2時間もすれば、汗びっしょり。作業を終了して、シャワーを浴びて、着替えるとさっぱりした気持ちになります。
 お昼ご飯を頂いたら、後はお昼寝をしてしまいます。お腹が一杯になると自然に睡魔が襲ってくるのです。
 ところで、世の中には寝られないと言われる方がいます。その原因は何かと思うと、

 1.病気のため
 2.寝過ぎたため
 3.心配ごとがあるため

 以上の3つぐらいが浮かんできます。1番は手術の後など、痛みがあって寝られない場合があります。しかし、痛み止めの注射をして頂いたら、その後はぐっすり寝られることができますね。2番はこれはどうしようもないですね。問題は3番です。
 杞憂(きゆう)という言葉があります。昔の中国で杞という国にいたある人が、「天が落ちてきたらどうしよう、地がこわれたらどうしよう」と心配して夜も眠られなかったという話からきている言葉です。ここから取り越し苦労をすることを杞憂と言うようになったということです。
 考えてみればこの世は何が起こるかわかりません。心配のタネはつきないかもしれません。しかしそれを心配していては、この世では生きていくことはできません。本当に病気になってしまいます。
 世の中の心配事はほとんどがどうにもならない問題です。だから、逆にくよくよ考えずに、あきらめてしまった方がいいかもしれません。
 仏教の教えは、諦めの教えといわれますが、それはお手上げという意味ではありません。ものごとの本質を明らかにする意味なのです。
 つまり、「なるようにしかならない」問題で、ごちゃごちゃ悩まないことです。どうしよう、どうしようとびくびくしていても、それは人間を疲れさせるだけです。そのときは、そのときと開き直ってみたらいいのではないでしょうか。
 寝ることは、どこかで下手な考えを放棄する作用があります。なんとかなるさ。エーィ寝てしまえと寝ることもいいかもしれませんね。
 しかし、すべてに渡って初めから「なるようになるさ」というのも考えものです。
 やれることはやって、後はどうとでもなってもいいという開き直りが、ゆったりした眠りをもたらすはずです。
 暑さを乗り切るには、やすらかな睡眠ですよ。



■□7月の法話■□



●捨てるもの

 梅雨だというのに雨が降りません。今、京都の温度は34度。真夏の暑さです。
 庭を眺めていても、木々の葉は揺れず、じっとしたままです。
 こんな時は雨が降ってくれればと思うのですが、そうはなかなかいきませんね。私たちが生きるということも、これと同じでなかなか自分の思い通りにはなってくれません。
  最近、マスコミでよく取り上げられる話題に、「ネット不倫」があります。インターネットの「出会い系サイト」にアクセスして、そこで相手を見つけ、不倫が始まるということです。
 現在、不倫中の女性はインタビューに答えて、
 「結婚しているが、主人が女として見ていない。このまま歳を取るのかと思うと何か満たされない。もう一度こころを時めかしてみたい。そこで、インターネットを通して知り合った男性と不倫。彼は私を女として見てくれるのです。だから今は、幸せ」
 と語っていました。
 人間と言うのは不思議なもので、すっと楽しいと何か物足りなく感じ、ずっと苦しいと何とかそこから逃げたいとおもってしまう傾向があります。なにかずっと時間も体も止まってしまっているような感覚になるのでしょうか。そこで、その感覚がいやだから、動こうとするのです。
 仏教では「縁」ということを言います。簡単に言えば相互依存関係ということです。つまり、あなたが動けば、縁が生じ、それに影響されて、いろいろな波紋が起こるとういことです。またその波紋に今度は応え続けなければならないでしょう。
 ネット不倫をされている女性は、すでに不倫という行動に走られています。その行動はいろんな波紋を生じていることと思います。それはご主人であったり、子供さんであったり、不倫の相手であったり、・・・・。
 ただ、言えることは、わたしたちが一つの行動をとるということは何かを捨てなければいけないということです。例えばこの女性ですが、不倫することによってウキウキした気持ちを得られたかもしれませんが、今まであったのんびりとした時間は捨てなくてはいけないのです。後で、あの生活がいいといって、も捨ててしまったからには帰ってこないのです。
 わたしたちは、そのときどきに何らかの行動をしています。その時に、自分にとって本当に捨てていいものは何かをきちんと考えてもらいたいと思うのです。

 捨てる

 どうでもいい
 ものから
 捨ててゆく
 んだね

 相田みつをさんの詩は、よけいなものを捨てた身軽さの感じられる詩ではないでしょうか。
 捨てるものを捨ててしまえば、こだわりが少なくなるので、気楽ということでしょう。



■□6月の法話■□



●私たちに与えられたテスト

 関西地方も梅雨に入ってしまいました。
 これからしばらくは鬱陶しい日々が続きます。奥さんたちは洗濯物がなかなか乾かないのでいやな季節かもしれませんね。僕も雨が降っている時は出かけるのがいやだと思うのですが、庭に水を撒かなくていいのでその分はありがたいと思っています。
 どんなに晴れがいいと思っていても、雨が降るときは雨が降ります。生きていてもいやだと思ってもやってくることがあります。老いや病気がそれです。これらは私たちが生きている以上逃れることができないものです。
 病気になれば、病気を生きていく、老いれば老いを生きていくしかありません。
 ところが私たちは今の自分になかなか満足しません。常に今の自分以外でありたいと思ってしまう傾向があります。例えば現在お金がない人は、なんとかお金があったら、恋人のいない人は恋人がいれば、・・・・とあがきます。病気でなくて健康であれば、老いていなくて若かったらとあがいてしまうのです。
 キリスト教では病気に対して、「神から与えられた試練だ」と教えられます。これは人生にはいろいろなことがある。私たちにとっていいことばかりではない、必ずいやなこともある。そのいやなことに対するとき、これは神さまが今の私たちの人生に必要だから与えられたものだということを意味していると思います。つまりすべてに意味があるということでしょうか。
 しかし、現在の私たちはそうは思っていません。病気や老いは人生にとって無駄なことと考えているようです。病人や老人は社会に対して何も生産的なことができないので、社会の隅に追いやってしまいます。だから、私たち自身が病気や老人なったとき、人間としてむなしさを感じてしまうのです。
 病気や老いは私たちにとってはいやなことかもしれません。かと言って、愚痴をこぼすのも愚かなことです。
 良寛さんの言葉に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候、死ぬ時節には、死ぬがよく候、是はこれ災難を逃るる妙法にて候」という言葉があります。災難がきてもわずらってもしょうがない。災難を災難として無心に受け止めれば、それが災難から逃れる一番の方法だという意味だと思います。
 病気になって、ベッドで苦しんでいるならば、それはそれで私たちは病気を受け入れる。老いて、腰が曲がり、話がくどくなり、元気がなくなっていくようでも、それはそれとして受け入れる。そのままを受け入れ、自分としてできることをしていくことが大切なのです。
 病人は病人としての人生を、老人は老人としての人生を、健康人は健康人の人生を生きていきましょう。ひょとしたら、病気や老いは、私たちの生き方を軌道修正させるために、仏さまが私たちに与えたテストなのかも。いやなテストかもしれませんが、それぞれの回答を書いていってください。



■□5月の法話■□



●布施について

 今、法蔵禅寺の庭は、新しい葉が茂ってきて、緑が鮮やかになっています。それを眺めていると、心がほっとします。
 木々や花は、誰かのために枝を伸ばしたり、花を咲かせる訳ではありません。自分の生命力で大きくなったり、花を咲かせたりするはずです。そこには「ただ」という美しさがあります。
 私たちはどうでしょうか。勉強したり、働いたりするのは、いろいろ理由づけができるかもしれませんが、やはり「自分のため」というのが本音ではないでしょうか。ま、中には木々や花のように人知れずこつこつと勉強したり、働いたりする方もいます。しかし、大多数の方は、「自分のため」という思いがあって、それに振り回され、表に直接的に出たり間接的に出たりします。
 「新聞の三面記事を読めば、それが自分の姿だ」と誰かが言われていたのを記憶しています。私たちの欲がなにかの縁によって、よくない方向にいったのが、三面に記載された凄惨な事件になっているだけなのです。この世の地獄は欲への執着のこころから起こるのです。
 仏教は実践の宗教と言われます。専門の方だけが修行するのではないのです。私たちも修行して、仏になることを仏教は言っていると思います。
 では、何をすればいいのでしょうか。
 答えは、「布施」をしなさいと言われます。
 布施と言うと、法事やお葬式の時にお寺さんに渡す、お礼金のことだと皆さんは思われていると思います。それも確かに布施なのですが、それだけではありません。
 布施とは、サンスクリット語の「ダーナ」を意訳したものです。ダーナを音訳すれば「檀那」となります。またこれは「檀家」とも言われ、お寺に所属する家で、お寺に布施する者の意味があります。
 布施は、持てる人が持たざる人に対して施しをしてやるということではありません。まさに逆で、布施することによって私たちにある欲への執着のこころを捨てる修行なのです。
 だから、仏教では「三輪清浄の布施」ということを言います。布施する人、布施される人、布施される財物、この三つが「空」であり、「清浄」でなくてはならないと言うのです。「私があなたに恵んでやる」とういうような恩着せがましいい気持ちでは布施にならなのです。される人も、卑屈さがあってはいけない。また財物も清らかでなくてはいけません。どこにもこだわりがないことが大切なのです。
 布施は別名、喜捨と言います。損得を思わず、見返りを求めないで、喜んで捨てるから喜捨と言います。喜んで捨てるのです。自分にとっていらないから捨てるでは駄目。自分にとって大切なもの、重要なものを捨てて喜捨になるのです。
 西郷隆盛は「児孫のために美田を買わず」と言っています。ところが財産を残したために、のこった人々はネコの額のような土地を兄弟で争うような相続問題が起きてきます。私としてはこのような状態を見ると、お寺に限らず公共のところに布施した方がどれだけいいかと思ってしまいます。供養になるし、自分の欲を離れる修行になるからです。
 今日から、少しでも布施をしていきませんか。  最後に相田みつをさんの詩を。

 ただあたえる
 それが布施
 母親が子供におっぱい
 をやるときのように



■□4月の法話■□



●すべては縁によって

 わたしたちは誰ということなく相談を受る時があります。その時、相手のことを考えながら、どうすればその問題解決に一番いいかを答えています。しかし、相談された方がわたしたちが考えた方法を取るか、取らないかはわかりません。ただ、大体、わたしたちが考えた方法は取られないことの方が多いものです。
 これは、十人十色と言われるように、人はそれぞれ育った環境、性格、教育などが違い、どんなにわたしたちがいいと思った方法であっても、それぞれの人はその人なりにそうなるべく判断をしてしまうからです。これを一時の話だけで変わると思うのが間違いではないでしょうか。
 親鸞上人の話を弟子の唯円が書き留めた『歎異抄』という本があります。次のような会話があります。
 親鸞「おまえは私のいうことは何でも聞くか」  唯円「はい」
 親鸞「それでは人を千人殺してこい。そうすれば、おまえの極楽往生はまちがいない」  唯円「いいえ、私には一人さえも殺すことができません」
 親鸞「そうか。おまえに人が殺せないのは、おまえが善人だからではない。おまえに人を殺す縁がないからだ」
 この話は、人を殺すという行為を含めてわたしたちが行う行為は、善人や悪人ということでするのではなく、縁があるから行うということです。つまり、人間は初めから善人や悪人がいる訳ではなく、縁によって善人や悪人になる可能性があるということです。  仏教では、この世のすべてのことは、「因」(直接的原因)「縁」(条件)によって起きると言います。例えば、キュウリの種があったとします。それだけでは何もなりません。そこで、種は畑に植えられます。種は地中の栄養や水分を吸収して、芽を出します。そして太陽の光、空気中の物質、雨などを得て、キュウリになっていくのです。種を植えることが、「因」であり、太陽、空気中のもの、雨などが「縁」になります。
 人間の場合も同じです。人(因)がいて、その人がたまたまある人に出会う。そこで、憎たらしいなという感情が生じます。そこで、邪魔だと思い、相手をなぐって(縁)、刑事事件になるといようなものです。
 以前には、わたしが相談を受けた時は、わたしの考えた方法が一番と思っていたのですが、今ではそれはあくまでヒントだと思うようにしています。ただ、この世は、因と縁によって果が起こってくるので、相談された相手の方にはその人なりに「よい縁」を作って頂くよう、最後には祈ることにしています。



■□3月の法話■□



●眠るときは、ぐっすり

 わたしたちは心に何か気にかかることがあると、なかなか眠りにつくことができません。心配ごとやイヤなことが思い出されて、寝ようとするのですが、寝られないのです。
 生きていれば、だれでもイヤなことや心配ごとはあります。だからといって、眠らない訳にはいきません。どこかで、1週間眠らずにいると、人間は死んでしまうという話をきいたことがあります。眠るといことは、わたしたちにとって大切なことなのです。
 そんな人間にとって大切な眠りに、心配ごとイヤなことを持ち込むことはよけいなことではないでしょうか。眠る時は、夢を見ようが見まいがわたしたちは寝ています。それに任せるということが必要ではないでしょうか。
 こう言うと、眠れない人は「わたしの抱えている問題はそんな眠れるような問題ではない」と言われるかもしれませんね。
 しかし、眠れない人は、一日中その問題を考えているのでしょうか。そんなことはないと思います。時にはテレビを見ながら笑ったり、隣近所の人と話をしていて、問題を忘れているときがあるはずです。そして、その問題も、考えても答えのでる問題と、答えのでないどうしようもない問題もあるはずです。眠れないぐらいの問題なので、後者のような問題なのでしょうね。
 どちらにしても問題があるのはいたしかたのないことです。ただ、それを重くしないようにすべきではないかと思います。
 そんな時は、ぐっすり眠ること。なにも思わず眠りに身を任せたらいかがでしょう。
 ところで、禅宗の修行に坐禅があります。坐禅の時は、なにも持ち込まず坐りなさいと教えます。食事の時は食事に、作務(草取りなどの作業)の時は作務になりきれとも言います。掃除をしている時に、次の予定を考えることはよけいなことなのです。掃除の時は掃除。禅宗では坐禅を通して、一日一日をそのように生き、一生もそのように生きることを教え、身につけさせるのです。
 みなさんも坐禅をしてみたらいかがでしょう。それができないのであれば、5分間寝る前に静かに坐ってみたらいかがでしょう。眠る時は眠るです。きっと、眠るときにはぐっすり眠ることができるはずです。



■□2月の法話■□



●押しても駄目なら引いてみて

「押しても駄目なら引いてみろ」という言葉があります。とことん物事をやってみて、それで駄目だったら、ちょっと下がってみると、解決の糸口があるということでしょうか。
 最近、テレビで「後出し負けじゃんけん」というゲームをやっていました。じゃんけんとルールは同じなのですが、手を出すとき負けた方が勝ちというゲームです。これが簡単そうで難しいのです。それは、勝ちたいという人間の思いがあるからです。ついつい普通のじゃんけんのように勝つ手を出してしまうのです。
 生きる上でもこれは同じかもしれません。つねに勝てることができればいいのですが、相手のあること。相手も同じ思いです。そこでニッチもサッチもいかなくなります。そんな時は、「後出し負けじゃんけん」の要領で、負けることを考えたらどうでしょうか。つまり引くことです。
 人生はゲームのよなものだ、と誰か言っていたのを思い出します。一人だけ勝ちたいという気持ちはわからないでもありません。しかし、無常の世の中。そう簡単にはいきません。また、いつも一人だけが勝ちというのはおもしろくありません。そんな時は、「押しても駄目なら引いてみろ」の言葉のように、他からどのように言われようが、負けたり、引いたりするこころの余裕が欲しいものです。
 次の話は、最近読んだ本に載っていた椋鳩十の「しらくも」と言う男の子の話です。
 彼は、ハエが彼の頭にとまり、飛んでいくとき、彼の頭から白い粉が飛ぶので、そうアダナされいました。そんな彼ですから、誰も近寄らない。また青洟を垂らして、成績も6年間びりというので嫌われものだったのです。
 彼は学校を出ると、農業を継ぎ、結婚して子供が生まれます。自分がダメ人間と言われ、つらい思いをしたので、子供が勉強する気になったら、何でもしてやろうと考えていたそうです。ある時子供が本を買ってきて、机の上に置いていました。しかし、全然読まない。そこで、彼は親が読まないから、子供が読まないなのだと思って、読み始めます。ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』。内容は、主人公が何度挫折しても立ち上がっていく物語です。
 彼はこの本に感動して、ジャン・クリストフのように生きようと決心して、農業を本格的に勉強し始めます。しかし、今まで勉強してこなかったので大変。役場に行っては、もうこないで欲しいと思わせるぐらい、専門家に尋ね、専門書もまる暗記するぐらい読み込んでいき、実践していきました。そして、その地方で有数の農業専門家になったということです。
 しらくもが勉強に目覚めたのは40歳。椋は、「感動は人生を変える」と言っています。
 しらくもは、学校でダメ人間と言われてきたのです。彼も劣等感にさいなまれたことでしょう。しかし、彼はそれにうち勝ったのではないかと思います。ダメと思われてもいい、そんなものにこだわっても勉強はできないと考えたからでしょう。つまりダメ人間を受け入れて、愚に徹しきったので、ダメ人間というレッテルを吹き飛ばしてしまったと思います。
 私たちは人にレッテルを貼ったり、逆に貼られたりしています。いいレッテルであればいいのですが、そんなレッテルは少ないでしょう。たとえ悪いレッテルであっても、それと自分の生き方とは関係がないはず。そんなことには惑わされず、しっかりと自分を生きてみてはどうでしょうか。
 そんなとき、「押しても駄目なら引いてみて」の言葉としらくもの話を思い出してみてください。


■□1月の法話■□



●風を楽しみながら

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今年は21世紀の幕開けの年。どんな世紀なるか、楽しみですね。
 ところで、ここのところの世の中を眺めていると、いろいろと大変な時代だと思えてきます。こころの問題、経済の問題、政治の問題とどこかおかしいという感が強いのです。かと言って、私が何か発言ができるかといえば、そんなたいそうなことはできません。ただ、身近なことに対して仏教の教えからのヒントのようなものを書くのが私の分ではないかと思っています。だから今年も同じようなことをお話ししたいと思います。

 最近、寒い日が続いています。風がビュービュー吹いて、枝に残ったモミジが散ってきます。春には暖かい風、夏には暑さをほんの一時わすれさせる風、秋にはさわやかな風がそれぞれ吹いてきますが、思えば一年中風は吹いているのです。世間でも不景気の風が吹いています。
 人生も同じこと。いろいろな風が吹いてきます。悲しい風、うれしい風、憎らしい風、恨みの風と。
 ところが、私たちはいつも自分にとって都合のいい風を期待します。確かに一時は続くような感はあるのですが、いつしかイヤな風が吹いてきます。都合のいい風はいいのですが、そればかりという訳にはいかないようです。
 最近、アサヒビールの会長樋口廣太郎さんの本を読ませて頂きました。樋口さんの考えは「逆境こそチャンスだ。だからいまの時代はいい時代だ」ということです。これは奇をてらった考えではないのです。
 普通考えれば、今、経済界の状態はよくありません。会社のトップとしては責任を重々感じられてもいます。それでもあえてそう言われるのは、「ひどい」「よくない」と言っても始まらない。もっと前向きに生きる姿勢が大切であり、何事も前向きにトライできる可能性を秘めた時代だ。だからいい時代だと言われるのです。
 ところで、それと同じような考えに「八風吹けども動ぜず」と言う禅の言葉があります。八風とは「利(り)・衰(すい)・毀(き)・誉(よ)・称(しょう)・譏(き)・苦・楽」です。「利」は意にかなうこと、「衰」は意に反すること、「毀」は陰でそしること、、「誉」は陰でほめること、「称」は面前でほめること、「譏」は面前でそしること、「苦」は心身を悩ますこと、「楽」は心身をよろこばすことを言います。つまり、私たちのこころを動揺させる八つの状態なのです。
 これらは私たちのこころを捕らえて、こだわってしまうものばかりです。そして、それらによって私たちは悩み、苦しみます。「八風吹けども動ぜず」と言う言葉はそれに囚われるなということとなのです。
 ただし、この言葉は囚われるなということなのですが、「動ぜず」という言葉から、私たちは無理して風が吹いても動かないぞという肩に力のはいった生き方をしてしまいがちです。それもまた一つの囚われ。もっと楽に考えたらいかがでしょうか。
 私たちは弱い人間です。柳のように吹かれてもいいのではないでしょうか。風に吹かれながら楽しむ。その中から自分としてできることをやっていくことができるのではないでしょうか。その中から自分の可能性を発揮できるチャンスが見つかると思います。
 あえて言えば、「八風吹けども動ぜず」ではなく、「八風吹いて動ず」で生きれば、楽しみながらの人生を歩めるのではないかと思います。
 まず肩の力を抜いて、風に身を任せてみませんか。

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